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今年もあと少しで12月14日を迎えます。
その日を迎えると決まって、「今日は何の日」コーナーでは「赤穂浪士の討ち入り」の日と紹介されます。
そう、日本人は「忠臣蔵」の物語が好きなのです。
(まぁ、好きでない人もいるとは思いますが・・・)
江戸時代に起きた赤穂浪士事件を描いた作品のお題「忠臣蔵」とは、その名前の通り、「忠臣の大石内蔵助」という意味です。
討ち入りの総大将であり、主人公は大石内蔵助なのです。
先日、赤穂浪士の討ち入りの足取りを走って追ってみました。
さ・・・行ってみましょう。
家から出発、走って巡る都合上、順番が逆になりますが、泉岳寺へ。
泉岳寺駅、もしくはJR田町の近くです。
赤穂浪士が討ち入り後、江戸の町を歩いて(拍手喝采で)たどり着き、最終的に幕府の命により切腹した場所です。
これより先は写真撮影を遠慮しましたが、まず右手に吉良上野介の首を洗ったという井戸、「首荒い井戸」があります。
その後、赤穂藩の主君であった浅野内匠頭(たくみのかみ)の墓前に捧げられ、僧侶2名によって吉良家へ返されたと言われています。
左手には赤穂浪士記念館があります。
ゆるやかな坂道を登っていくと、47人に1人加えた48志士のお墓と浅野のお墓があります。
お線香でお参りする人がたくさんいました。
ネットで調べると両国に跡地である公園があると言います。しばらくランニングして両国へ。
僕は東京駅までなら土地勘があるのですが、下町の方は自信がなく、ときおりGoogleMapのお世話になりました。
本所松坂町公園として整備されてます。
今は、当時の86分の1のサイズだそう。
僕が行った時は、2組ぐらいいました。
泉岳寺に比べると規模も人出も淋しい印象です。
上野介は高家(こうけ)筆頭といって、朝廷をもてなすしきたりなどを、慣れていない大名に教えるという役目でした。
一方で浅野は、短気でかんしゃく持ちだった、病にかかっていた、とも言われています。
上野介に対する御礼が少なすぎて上野介が意地悪したという話も有名です。
浅野がキレて、江戸城内で上野介に斬りかかったのが松の廊下事件です。
ここで押さえたいのが時代背景です。
江戸時代の「平和な時に事件が起こった」というのも大きなポイントだと思います。
幕府の出した結論は「喧嘩両成敗」ではなく、浅野は(禁止されていた江戸城内で刀を抜いたため)その日に切腹。
赤穂藩はお家取り壊し。
一方の、吉良はお咎めなしであったが、数カ月後に隠居に。
江戸の人々は幕府の「不平等なジャッジ」に不満だったに違いないのでしょう。
赤穂浪士が各人ばらばらで江戸へ入る際、赤穂藩の紋が見つかり明らかにバレてしまっているのにも係わらず、快く通したという話もあり、また、討入り後に赤穂浪士を沿道で褒め称えた話は有名です。
赤穂藩ではお上の裁定に対して意見が別れました。藩の取り壊しにより城を明渡すことに反対し戦おうという者、従おうという者…
藩の行く末を悩み、No2であった大石らは最終的に討ち入りして「忠義」を選びました。
↑赤穂城の中にある大石神社
若殿様であった浅野の精神状況や性格がいなかるものであっても、「敵をうつ」という行為が尊いと考えたのかもしれません。
赤穂浪士の討ち入りの計画を知り、吉良邸の守りを厚くしていました。
もしかすると、なぜ自分が殺されなければならないか、「?」のまま息絶えたのではないでしょうか?
戦闘モノでも、映画、ドラマでも最後は正義が勝つように作品は作られます。
視聴者はとかく主人公の気持ちに立って感情移入しますが、僕はいわゆる敵の立場でストーリーを考えてみるのも大切だと思っています。
お上の裁定ではシロの、隠居した老人を、なぜ殺すのかと。
立場も違えば価値観も違うのは当然のこと、吉良がもしかすると実際より悪者にされているのではないか、その可能性を想像すると可哀想な気がします。
↑吉良邸付近にほとんどの家に貼ってあったポスター。毎年、吉良祭が行われている
100名城巡りの旅で、僕は今年の2月に播州赤穂城へ行ってきました。
城下町としての情緒を遺し、観光地として成り立っているようでした。
忠臣蔵は日本人に何を伝えているのか?
そして、浅野と大石の主従関係性の中に、組織が尊重される日本社会で何を見出だし実践するか?(30歳以下の若者たちは個の意識が強く共感は薄いと思うが…)
この辺りが、特に40代より上の世代には赤穂浪士と自分の価値観がハマりやすいストーリーになっているのが人気の秘密なのでないでしょうか。
家〜泉岳寺〜吉良邸跡までの往復29キロの中で僕が考えたことは以上になります。
【追伸】
播州赤穂駅には浅野と大石内蔵助、2人の「辞世の句」を大きく引き伸ばしたものが貼ってありました。
浅野が
「我はまた 春のなごりを いかにとかせむ」
と早すぎた人生に未練があるのに対して、
大石は
「あら たのしや おもひは晴る」
と詠んでいます。
自分だったらどちらの気分で死を向かいたいか、答えは明白である。